変わる日本語 読んだよ

変わる日本語―現代語は乱れてきたか (講談社ゼミナール選書)
祖父の本第二弾。
金田一春彦とか外山滋比古とかの国語学者の講演録みたいな本。
30年近く前の本だが「最近の日本語は乱れてきた」とか「ら抜き言葉」とか「ペットに餌を『あげる』か『やる』か」なんて話はもうこの頃からあったというのはなかなか興味深い。愚者は経験から学び…ってとこだろうか。ちょっと違うか。

要は乱れたというなら乱れの基準は何かという点に立ち返ると乱れていないという話になる、意味が通じないという問題があるかというと高学歴化によってそんなこともなくなりつつある、という話。

むしろ高学歴化によってもたらされたのは略語と難しい言葉の二極化と外来語かぶれによる言語感覚のふくらみの衰退なんじゃなかろうか。ああこの文章もよく分からんな。

「お父さん、こないだ学校でね、この問題について最終的総括のための討議集会がもたれたんだよ。そこで開放的に意見が述べられてね、集約した結果、結論的に現段階におけるこの方針の妥当性が確認されたわけなんだ」


「みんなで寄り合いをやって、まとめてみようじゃねえか、あけすけにしゃべろうじゃねえかってんでしゃべってみたんだ。煎じ詰めるとやっぱり、いまのところはこれしかねえって、そういうところで落ち着いたんだ」

とか

「おめえ道楽はなんでえ」「おれの道楽は女郎買いだ」


「ご趣味といたしましてはどのような方面で」「趣味は接客婦に相まみえることであります」

とか、まあこれは極端だがわろた。
当時は和語から漢語かぶれへの過渡期で今は英語と造語かぶれの過渡期なのかもしれない。


前の本もそうだが古い日本語系の本を読んでみたのは日本語が亡びるときを読みたいなと思ったのでその前に古い話もという理由だったのだが、なんかこの本を読むと日本語が乱れてきたというのは年寄りとか一部の識者の経験的なものでいつの時代でもあるんだなあというのがだいたい分かった。最近の若いもんは理論ですな。

どっちかというと日本語が亡びるときはグローバリゼーションと情報化社会の中での情報に占める言語の割合という観点からマイノリティである日本語は亡びるんじゃないかという話のような気がしてきた。まあ気が向いたら読もう。