これから「正義」の話をしよう 読んだよ

これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学


ご存知サンデル先生の著書「Justice」の日本語版。
YouTubeの講義と平行して読み進めて行こうと思ってたのだが、なかなか動画を見るまとまった時間がなかったので結局これを先に読み終えてしまった。


一番最初に投げかけられる「正しい殺人はあるか」という問いにまつわる質問は色々と考えさせられる。
具体例から一般論へと進んでいく議論は興味深いと同時にやはり難しい。これをリアルタイムで議論できるハーバードの学生はさすが。


市場と倫理、愛国心などのテーマのなかで「平等性」に関する部分は印象深かった。
自分の成し遂げた成果は、周囲の助けや運の要素もあるとはいえ、基本的には自分の努力の結果であり、自分の手柄であるというのは、普通に考えれば多くの人はある程度同意するところではなかろうか。
俺自身「頭のいい家系はいいねー」とか冗談交じりに言われるとあまりいい気がしなかった。多少環境的に恵まれた要素はあるとはいえ、大部分は自分の努力の結果である、と。

pp.206--207
(略)しかしロールズは、努力すら恵まれた育ちの産物だという、「一般的な意味での報酬を得るために努力し、挑戦しようとする姿勢でさえ、幸福な過程と社会環境に依存する。」(略)
私の授業で、ロールズのこの見解を取り上げると、多くの画k性は憤然として反論する。ハーヴァード大学に合格したことを含め、自分がこれまでに成し遂げてきたことは自分の努力の成果であり、自分にはどうにもできない道徳的に恣意的な要因によるものではない。というわけだ、(略)
心理学者によれば、生まれ順は本人の勤勉さや地道に努力する傾向に影響を与えるという。(略)ほんのお遊びとして、長子の人は手を挙げて欲しいと呼びかけると、約75〜80パーセントの学生の手が挙がるのだ。いつ調査しても、この結果は変わらない。
長子として生まれたのは自分の手柄だという人はいない。もし生まれ順のような道徳的に恣意的な要因によって、勤勉さや地道に努力する傾向が決まるなら、ロールズの主張にも一理あるのではないか。努力でさえ、道徳的功績の基準にはなりえないのだ。

このくだりはまさに目からうろこ。
確かに東大生の家庭の平均年収は日本全体の平均年収より高いみたいな話は聞くが、自分の努力であれ、幸運にも努力できる環境や努力が報われる環境が揃っているという前提条件がある、という可能性を考えると上記の考えは多少改める必要があるかもしれない。
スポーツなんかはその能力がスポーツとして評価される時代に生まれるというのは確かに自分ではどうしようもない要因によって努力が報われる例か。


ほかにもスポーツ選手の報酬とアメリカ大統領の報酬、一般的な労働者の報酬を引き合いにだして、ある人がほかの人より価値があるということがあるのか、また能力の差があるとしても、何百倍も違う報酬に値するほどの差はあるのか。はたまた最初の殺人の話に戻って、5人を助けるために1人を犠牲にすることはどうなのか、5人が10人、100人、1000人なら、というのも非常に考えさせられる。


本書が提起する問いに唯一絶対の答えはないことは、古今東西の哲学者が考え続けても統一的な見解が出ていないことからも明らかだが、こういうテーマに対して問題意識をもち、さまざまな意見を交えて考えるというのは非常に刺激的だ。