「死」の教科書 読んだよ

「死」の教科書―なぜ人を殺してはいけないか (扶桑社新書 20)
サブタイトルの〜なぜ人を殺してはいけないか〜というのは1章のツカミで構成はこんな感じ。

  • 第1章 なぜ人を殺してはいけないか
  • 第2章 喪の作業―JR事故の遺族たち
  • 第3章 償い―JR事故から二年
  • 第4章 「三万人」の叫び
  • 第5章 死刑のある国
  • 第6章 最期をどこで迎えますか
  • 第7章 葬送の行方
  • 最終章 戦争と平和


メディアはゲーム叩きが好きだな。子供がゲームやりながら死ね死ね言うのを問題視してるのにゴールデンタイムに死んでぇ〜っていうお笑い芸人を持ち上げてる神経が分からん。しかも死をタブー視してるから死と対峙することがないって他の章で書いとるじゃないか。

キューブラーロスの死の受容プロセスは何も自分が死の宣告を受けたときだけじゃなくて身近な人を亡くしたり何かしら大きな喪失体験をしたときにも当てはまるのかな。

JRや日航機事故の話は延々と続く喪と償いの作業。遺族や企業の人の思いは計り知れないところもあるが、日本は平和なんだなとも思う。

死刑について。

自然状態では「やられたらやり返す」。でも、それでは復讐が復讐を呼んでしまうので、刑罰権を国に信託譲渡した。
p.164

うんうん。

ときに「国家による殺人」とまで批判される死刑制度。
p.169

はい?
罰金は国家による強制的な金銭の取り立てで、懲役は国家による強制労働で、禁錮は国家による監禁で、死刑は国家による殺人ですよね?死刑と無期懲役が機能しきってないのに死刑だけ取り立てて言われるというのはどうも釈然としない。死刑については賛成だが死刑廃止したとして代替できる刑罰があるなら別にいいんじゃないかしら。
どうしようもない犯罪者には死刑とか無期刑とかより有期で流刑なんてのはどうだろう。その気になりゃ自活できるくらいの無人島に流してあとは完全放置、ワクチンくらいは予め打ってやればいいか。満期になって生きてたら懲役に切り替えとか。

ただまぁ

死刑制度は、仮に適用されなくとも、人類の法的なけじめとして法体系の極限に置いておくことに意味がある。
p.196

あたりが死全体を考える上でも筋が通ってるんじゃなかろうか。

死の恐怖は突き詰めれば、死そのものではないと思う。(中略)その現状を日々肯定して生きていかねばならないプロセスこそが怖いのだと私は考えます。
p.235

葬送の話はあまりピンとこない。こういう妄想はあるにしても。


最終章なんかわざわざ最終章って書いて始めるあたりが産経っぽくて嫌だけどパトリオティズム、郷土愛、あるいは守るべきものでもいいかもしれない。結局戦争というのはどっちも大義名分があってやってるわけだ。そしてやっぱりどっちも悪いんじゃないんだろうか。だからどうなんだと言われると難しいが。

命の重さに軽重はないはずなのに、正確な人数すらカウントされないまま死んでいく人たちが、この地球にはいる。
自爆テロで○人死亡」などというニュースをごく当たり前の記号のように聞き流している私たち日本人もいる。
p.278

記号のように、というのはバーチャルな死という俺の考えに近いかもしれない。

日々メディアを通して伝えられる死が感覚を麻痺させてるというか、そういったものに対するバーチャルな議論が無意識に実際の死を否定しているというか、(中略)地球のどっかで戦争で死んだとか災害で死んだとか、交通事故の死者が去年より減ったよかったねとか、今まで知りもしなかった老人が雪下ろしで屋根から落ちて死んだとか、広義で言ってしまえば殺人事件の被害者すら当事者以外にとっては俺の中ではバーチャルな死に分類される。

http://d.hatena.ne.jp/yuta-celestial/20080113/1200245839

じゃあリアルな死とはというと、やっぱり自分から見ておかなきゃならんのかなあと思う。
404 Blog Not Found:News - 開けたくもないし、ましてやめでたくもないけど

ここにもパトリオティズムと記号的な死が。
大日本帝国の最期 第壱幕

戦線の場面での制作に当たっては多くの軍事資料に目を通した。文字を通して伝わってくるのは、初期の華々しい戦果を除いては、あとはひたすら死の嵐であった。死は、すべて数字であった。
作者あとがき

http://www.teiteitah.net/emp_jp-1.html


あとがきに人の死でメシを食ってるような社会部記者の自己批判の書でもあるとか書いてあったが非常に質の高い本だったと思う。


死は人生の終末ではない。生涯の完成である ― ルター