信じぬ者は救われる 読んだよ

信じぬ者は救われる
香山リカと菊地誠の対談本。
香山リカってどうにも胡散臭い気がしてずっと敬遠してたのだが、

pp. 45-46
香山 (略)裏付けがあるわけではないのに「こういう性格の人は、こういう男性と付き合う方が心理学的にもいい」と言うことがあるわけですね。それなんか、すごくいつも、ちょっと罪悪感、後ろめたい気持ちがある。自分のなかでは、これは治療行為とは違うんだ、エッセイを書くのと同じようなもので、(略)でも、それだったら精神科医って言わずに、エッセイ制すととか詩人とか言うべきだなとか、(略)これでも葛藤があるんですよ。
だから、私の場合は、(略)白衣を着た写真は絶対に出さないという線引きがある。(略)白衣という権威は利用しないっていう線引きがあるんだけど、それは全然あまり意味のない、それだけのことで。ただ、いずれにせよ、うしろめたくやっているんです。

こういう発言はなかなか印象的ではあった。


二元論みたいに単純化した思考は社会をハッピーにしない。信じ込む人は水に「ありがとう」というと美しい結晶ができるとかいうレベルの話と、水は0度で凍るという科学的事実を同レベルに見ている。信じてる本人がいいならいいじゃないかという話でもないし、だいたい本人以外にも飛び火するからたちが悪い。

幼児化する日本社会への言及もあった。


菊地誠のあとがきが印象的。

pp.156-157
ここでの動機は、たぶん善意とか熱意とか、そういうものだ。だから、動機は悪くない。(略)少なからぬ人たちにとって、「信じる」と「信じたい」とが同義語なのだ。あるいは、「信じたいこと」と「事実」が同義語なのだと行ってもいい。科学の問題だけではすまない悩ましさが、そこにはある。


昨日のハイチ大地震の折り鶴の話でもそうだけど、自分が何かしたいと思う動機は悪くない。だが鶴を贈れば被災者は勇気づけられるとか、思いは伝わるとかいう考えが「信じる」「信じたい」「当人にとって事実同然」になってしまうと周囲の迷惑も顧みず人の忠告も聞かず、挙げ句に反対論者の批判の揚げ足を取って人格攻撃に走る羽目になる。
もちろん合理的・論理的な思考や科学だけで説明できないことに関しては哲学や宗教的な考え方も必要だが、他者に悪影響や危害が及ぶようなことはやるべきじゃないな。


意外とまともな感じの本で読みやすかった。